狸のまち信楽から

信楽知っとく!?

狸のまち信楽から

大平正道(日本たぬき学会会長)

なぜ、信楽はたぬきが有名なの?

町に並ぶの狸たち 私の住んでいる甲賀市信楽には、10万体もの大小さまざまな焼き物の狸が並んでいます。
やはり中心となるのは、狸が笠をかぶって、徳利を片手にさげ、通帳をもった「酒買小僧」です。
酒買い狸 酒買小僧の狸はわらべ唄の「雨がしょぼしょぼ降る晩に豆狸が徳利もって酒買いに・・・」の風景を掛け軸に描かれていて、 この姿のたぬきの置物は、備前や常滑などでも、明治から大正時代にかけて焼かれていました。
信楽では当時、そのスタイルの狸があまり売れなくて、他の置物や火鉢などを焼いて細々生計を立てていたようです。ところがその後、なぜ信楽が他の産地を一気に抜いて、日本一の陶器狸の産地となったのか ...

信楽狸はだれがつくったの?

昭和26年天皇をお迎えした狸たち 日本一になった理由はいろいろあるでしょうが、そこで重要な役割を果たした人物が、信楽の陶芸家、藤原銕造です。 藤原銕造は、三重県阿山町の出身。明治9年の生まれですが、9才のとき伯父の京都清水焼の丸音陶房に引き取られ、12才のときからロクロをひいたと言われています。
京都にいた少年時代、清水の音羽川の河原で満月の夜に狸が月に向かって吠え、腹鼓を打っている風景を見て、銕造は狸の焼物を作っていました。明治中期には京都丸音の狸が飛ぶように売れ、大正初期に京都の一休庵(料亭)に納められた狸は、福と徳をもたらす「福徳狸」として当時、とても有名になったと言います。
さらに銕造の狸は、大正時代、御所へ勤めていた女官が、皇太子にお渡ししたところ、皇太子は大変お気に召されました。それがのちの昭和天皇です。
銕造はその後、京都から信楽に移るのですが、昭和26年、天皇陛下が産業視察で信楽を訪問されたとき、陛下をお迎えするために並べられた信楽狸を見て、次のような歌を詠まれました。

「をさなきとき あつめしからに なつかしも しがらきやきの たぬきをみれば」



この歌がきっかけとなり、信楽焼きの狸は一躍有名になりました。
このように、信楽狸が昭和天皇によって全国に広く知られるようになったことに並んで、藤原銕造のつくる狸の容姿、大きな上目づかいの眼をした狸の顔がとてもかわいく、抜群によかったことが、信楽狸が大ヒットする大きな要因でした。そのような意味で、藤原銕造氏はまさに、信楽狸の生みの親なのです。

信楽が、有名な産地となったかについては、他にも下記の要因が考えられます。

1. 日本人はたぬきが好きだから
2. 酒買小僧スタイルで、酒とピッタリ合ったから
3. 大物たぬきが造られて、看板代わりに使われたから
4. 愛嬌のある顔姿で、その格好が面白いから
5. 昭和天皇の御歌と、思い出で、大きく宣伝されたから
6. ※八相縁喜で縁起の良い置物と評判になったから
7. 信楽の観光で、町中が狸、狸、たぬきが町の顔になっていたから
8. よく売れたから、次々と焼いた。売れるから造るの好循環になったから。

私と信楽狸

定形型信楽狸の原型 信楽生まれの私は、たぬきについて50年余り関心を持っていませんでした。
町中に並ぶ狸、それはこどもの頃から見慣れた日常の風景の一部だったからです。
ある新聞社からコラムを依頼され信楽焼狸について調べてみたら、その歴史は意外に新しく約100年。あの擬人化した二足歩行の、いわゆる「定形型信楽狸」が誕生したのは昭和初期だったのです。
狸の置物はそれまで、京都の伏見や常滑でも作られていましたが、いずれも小さなもので、座った坊さんの姿などをしていて、現在のような上目使いで人に媚びているように見えるアニメ化された顔つきではなく、どちらかと言えば狐顔に近い野生の顔つきで... そんなことが分かるにしたがって、私の中で狸への関心に火がつきました。

たぬきのイメージや表現のいろいろ?

「狸」は、人里近くに棲む、最も身近な野生動物です。ケモノヘンに里と書く「狸」の文字がそのことを物語っています。
「ばかす」「腹鼓を打つ」「他抜き(他から抜きん出る)」「ずるい」「ひょうきんもの」「どこか間抜けで憎めない」など、古来より現在に至まで、日本人は狸を、実に様々な姿でイメージし、また表現してきました。
平安から室町時代、動物、獲物として「タヌキ」と共に、恐ろしい妖怪としての狸のイメージが多くの記録に留められています。
江戸時代に入ると滑稽なイメージと共に、日本人の狸のイメージが大きく膨らみ始め、江戸時代後期の大人向け絵本入り読本・黄表紙では、腹鼓を打ち、陰嚢を八畳敷きに大暴れする滑稽なキャラクターとして登場します 一方、室町時代には元話が成立したといわれる「かちかち山」は、江戸時代に至って異本が書かれ、広く流布しました。
現在まで、狸の子が兎に仇討ちする話など、さまざまなかちかち山の後日談が執筆され、いかに日本人に好まれた「狸はなし」であったかがわかります。
明治〜昭和初期には、それらが講談本を通じて人々の間に広がり今でもなお、日本の各地にはさまざまな「狸ばなし」が伝わっています。そこには日本人の狸のイメージ、そして狸を擬人化して世間社会のいざこざやストレスを風刺し、やんわりと笑い飛ばしてきた先人たちの姿が見え隠れしています。

たぬきと現代社会

最近の狸の焼き物は、コンピュータ制御のガスや電気釜で焼かれ、顔の表情にも個性がありません。
やはり一品ずつ手びねり(縄状の土を巻いていく技法)でつくり、登り釜で焼かれたものには、時代を越えた趣きを感じます。また、それを生み出す登り窯も、時代と共にほとんどが姿を消し、信楽のまちの風情が失われつつあります。
狸の似合うまちとはどのようなものか、その風景をどのように遺していけるのか ... 私たちに与えられた課題は大きいと言えます。今、「古きことは新しきこと」を合言葉に、「信楽狸」に似合う登り窯、土小屋、民家の保存・再生と現代アートのまちづくりも始まっています。信楽狸に似合う登り窯
信楽には現在、40ファミリー(200匹)余りの狸が生息していますが、山間の里にもダムや拘束道路建設の波が押し寄せ、もはや狸天国ではなくなりつつあります。宮崎駿監督のアニメ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台になった多摩ニュータウンのタウン誌(1998年1月号)には、次のような文面が掲載されていました。
「狸たちが失ったものは、また人間が失ったものでもある。それはこういう風景だった。いや風景だけではない。そこで暮らす狸にとって狸らしい暮らしとは、人間にとって人間らしい暮らしなので・・・(中略)緑に囲まれた今日の多摩ニュータウンは人間と狸の共有空間であって、狸と人間が共存できるまちづくりに狸が妥協したということだ」

こうしたことは、わがまち信楽についても言えることです。たぬきの思いやりに感謝しつつ、狸を守る環境や狸囃子の聞こえる信楽狸の郷としての原風景について考えていかなければならないと思います。

日本人とたぬき文化とは?

日本固有動物である「狸」の表現は、いわば日本人特有の感性がつくりあげてきたものと言っても過言ではないでしょう。
そのような意味では、狸は純粋な「獣(けだもの)」でもなく、イヌやネコのようなペットでもない。なんとも言えない微妙な"間合い"に身を置いています。
アナログの時計のように立ち止まり、"ほんまもん"の良さを、きちっと見極める時代にきています。
変幻自在なタヌキには、日本人の創造力の豊かさが感じられます。これこそが、日本人特有のたぬき文化に表れていると言えるのではないでしょうか。
同時にまた、失敗を許しあう日本人独自の道徳観をもって、「狸」を便利な存在として利用し、さまざまな役割を負わせてきた。そうした先人の叡智に今、学ぶことはいろいろあります。
あなたは「たぬき」のどこが好きですか、とよく聞かれますが、やはり「たぬき」の持つ"あいまいさ""白黒をはっきりつけない、デジタルでなくアナログ世界"が日本人の心の文化・生活環境文化の原点にあるように思われます。

大平正道大平正道  プロフィール 日本たぬき学会会長(前しがらき狸学会会長)
家具店店主、インテリアコーディネーター、福祉住環境コーディネーター 信楽公民館館長、
大学講師など多彩な顔をもつ。
その他、現在関わっている町づくり、ひとづくりのNPO理事が多数。
http://www.ztv.ne.jp/ann/ooatari/sigarakigakkai3.htm
【日本たぬき学会とは?】
「2001年4月1日「しがらき狸学会」を設立,タヌキに関して、サロン「狸座」の開催▽民話の収集、出版▽日本狸学会との連携で「全国たぬきフォーラム」の開催などを行ってます。
2008年11月8日から「たぬきの休日」として"たぬき休むでぃ!のイベントを展開するなどタヌキの置物で知られる町の活性化にも取り組んでいる。
2009年11月8日には日本たぬき学会と合併、機関紙「狸タイムズ」を発刊、狸を話題に全国180の狸をこよなく愛する会員と交流やタヌキ文化の研究を深めています。

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